解説者のプロフィール

篠永正道
1956年福島県生まれ。横浜市立大学医学部卒業。
横浜市立病院、秦野赤十字病院、平塚共済病院を経て2005年より現職。
脳脊髄液減少症における、ブラッドパッチ治療に定評がある。
著書に『脳脊髄減少症を知っていますか』(西村書店)などがある。
厚生労働省科学研究嘉山班「脳脊髄減少症の診断・治療の確立に関する研究」分担研究者。
●国際医療福祉大学熱海病院
http://atami.iuhw.ac.jp/sinonaga/index.html
脳脊髄液減少症ーブラッドパッチ療法で約7割が改善 症状と治療法を解説
交通事故や転倒、スポーツなどで首や腰に衝撃を受けたことがあり、その後、頭痛やめまい、首の痛み、耳鳴り、体のだるさといった症状が続いている……。もし思い当たるようなら、「脳脊髄液減少症」という病気かもしれません。
年間、10万人ほども潜在患者がいると見られる一方、医療関係者の間でもまだ認知度が低いため、病院へ行っても原因不明で、たらい回しにされてしまうケースも少なくないそうです。
しかし近年、この病気に有効な「ブラッドパッチ療法」という治療が、しだいに普及しつつあります。脳脊髄液減少症の治療を国内でいち早く手がけてきた、国際医療福祉大学熱海病院の、篠永正道先生にお話を伺いました。
――「脳脊髄液減少症」という病名を、ほとんどの人が知らないと思いますが、どんな病気なのですか?
篠永 私たちの脳と脊髄(脳から背骨の中を通って腰まで伸びる太い神経)は、髄膜(硬膜・クモ膜・軟膜からなる)にすっぽりと包まれ、その中に満たされた「脳脊髄液」の中に浮かんでいます。
豆腐が桶に張った水に、プカプカ浮いているようなもので、それによって重力や衝撃から守られているのです。もし脳脊髄液がなければ、豆腐のように柔らかい脳は、強く頭を振っただけで頭蓋骨にぶつかり、傷ついてしまうでしょう。
脳脊髄液は常に循環しており、通常は一定量に保たれていますが、なんらかの理由で外に漏れ出し、量が減少することがあります。その結果、頭痛や体のあちこちの痛み、めまい、耳鳴り、視力低下、吐き気、倦怠感、不眠などのさまざまな症状が起こる病気が、脳脊髄液減少症です。例外もありますが、症状は横になる(臥位)と軽くなり、起き上がる(座位や立位)と悪化する傾向があります。
脳脊髄液の漏れは、外傷が原因で生じる場合と、原因不明の突発性の場合とがあります。このうち外傷性に関しては従来、頭部によほど大きなケガをしなければ起こらないと考えられていました。しかし、ちょっとした事故や、転倒がきっかけになることも少なくないのです。
追突事故などで首の骨(頸椎)に衝撃が加わると、いわゆるムチ打ち症(頸椎ねんざ)が起こります。普通の頸椎ねんざなら、きちんと治療すれば1ヵ月ほどで改善に向かいます。ところが、いっこうによくならず、症状が慢性化して何年にもわたって苦しめられるケースがあります。一般に「ムチ打ちの後遺症」といわれますが、実は、脳脊髄液減少症だというケースもかなり含まれているのです。

――症状はどのように現れるのですか?
篠永 まずは理解しやすいよう、実際の症例を紹介しましょう。
初診当時、30代後半の男性Aさんは激しい頭痛や吐き気、めまい、倦怠感などに十数年も悩まされてきました。病院を何軒も受診するも、レントゲンやMRI(磁気共鳴画像法)で異常は見つからず、「ストレスの影響でしょう」と言われるばかりだったとのこと。
けれど実は、こうした症状が起こるようになる、きっかけがありました。ささいなことで知人と口論になり、胸を押されて転倒し、頭を打ったことがあったのです。その衝撃が、脳脊髄液の漏れを引き起こしたものと考えられます。
Aさんに、脳脊髄液の漏れを止める「ブラッドパッチ療法」(詳しくは後述)を行い、1ヵ月ほど経過すると、長年苦しめられてきた症状が完全に消えました。
将来を嘱望された、20代の女性ピアニストBさんは、初診時の2年前に交通事故に遭ったのがきっかけで、人生が狂ってしまいました。事故直後は首の痛みと吐き気があり、全治2週間の頸椎ねんざと診断されました。
その後しばらくして、頭が割れるような激しい頭痛と、全身を虫がはい回っているかのような、異様な感覚に苦しめられるようになりました。
やがて、幻覚や幻聴のような症状も現れるようになり、精神科で統合失調症と診断されます。しかし治療を受けても症状はいっこうに改善せず、その苦しさから逃れたい一心で、自ら手首を切ったことが何度もあったそうです。
テレビ番組で、交通事故後の脳脊髄液減少症について取り上げられたのを見たご家族が「もしや」と思い、Bさんを当院に連れてこられました。正直、脳脊髄液の減少で、精神症状が出現するのか疑問でしたが、検査を行ってみました。すると、腰椎部からおびただしい脳脊髄液の漏れが見つかったのです。
そこでブラッドパッチ療法を行ったところ、その翌日に激しい頭痛が嘘のように消失しました。その後、幻覚などの精神症状も徐々に改善していき、現在ではご結婚、ご出産もされ、元気にお過ごしです。
このように脳脊髄液減少症は多彩な症状が現れ、かつ、まだ世間に認知されていないため、適切な診療を受けられずに苦しんでいる患者さんは、相当な数に上ると考えられます。
――脳脊髄液の減少によって、なぜそうした症状が起こるのですか?

篠永 はっきりとは解明されていませんが、次のように考えられています。
まず一つは、脳脊髄液が減少すると、立位や座位になったときに「脳が通常より下に沈んでしまう」(図参照)ことです。
前述のように、脳と脊髄は脳脊髄液の中に浮かんでいますが、脳は神経や血管によって頭蓋につなぎ止められ、ぶら下がっています。脳脊髄液が減少して水位が下がると、脳も一緒に下がります。すると、脳から出ている神経や血管が、引っ張られて無用な刺激を受け、さまざまな障害が起こります。
例えば、起立時に頭痛が起こるのは、硬膜が引っ張られ、そこにある痛覚神経が刺激されるためだと考えられます。
次に、脳がうっ血状態(血が異常に多くたまった状態)になることによる影響です。「脳の容積+脳脊髄液+血液」の合計は一定なので、脳脊髄液が減少するとその分、血液量が増加します。血液量が増えると、渋滞した道路のように、血液循環は滞ります。それが、脳の機能を障害すると考えられています。
また、脳脊髄液には、神経伝達物質(神経細胞間の情報伝達に使われる物質)や、その分解物を運搬する役目もあるようです。体のほかの部位では、リンパ液が老廃物などを運搬し、排泄していますが、同様の役割を脳・脊髄では脳脊髄液が担っていると考えられています。その機能が障害されることも、症状の出現に関与していると思われます。
――脳脊髄液の漏れは、どうして生じるのですか?
篠永 例えば、脳脊髄液を取り囲んでいる硬膜に強い衝撃が加わり、裂け目ができると、そこから液が漏れ出すことがあります。でも、そうしたことが起こるのは、頭蓋骨の骨折を伴うような大きな外傷だけなので、ムチ打ちくらいの軽微な外傷では、脳脊髄液は漏れないと考えられてきたわけです。
しかし、さほど大きくない事故や転倒の後、多彩な症状が現れるようになった患者さんを詳しく検査すると、脳脊髄液の漏れが脊椎(背骨)から見つかることがわかりました。
脳脊髄液減少症の診断は、まず造影脳MRI(より詳しく調べるために、造影剤を用いてMRI撮影を行う検査)を行います。脳が下垂しているなど、脳脊髄液の減少が疑われる所見がいくつか見つかれば、おおよその見当がつきます。さらに、詳細な検査を行うと、脊椎から明らかな脳脊髄液の漏れを見つけることができます。
私は、脊椎に衝撃が加わったり、ムチ打ち状態で髄液の圧が一気に上がったりすることにより、脊椎の神経根部で硬膜の下のクモ膜がはがれ、そこから漏れ出した脳脊髄液が、さらに硬膜がメッシュ状になった部分から外に流出するのではないかと考えています。
――ブラッドパッチ療法とは?治療法について教えてください。

篠永 現在、髄液の漏れを止めるために行われている治療としては、ブラッドパッチ療法(硬膜外自家血注入)が一般的です。患者さんから採取した血液(静脈血)を、脳脊髄液が漏れている穴の近くの硬膜に注入する治療法です。
ブラッドパッチが効くしくみは、2とおりあります。まず、血液を注入することによって硬膜外腔が陽圧になる、つまり、その内側にある脳脊髄液より圧力が高い状態になります。それによって、脳脊髄液が漏れ出しにくくなります。
また、血液にはフィブリンという凝固物質が含まれていますから、これが固まって薄い膜を作って、穴の開いた場所をふさぐ効果もあります。
漏れが止まり、脳脊髄液が再びたまって、脳が元どおりに浮かんでくるまでには、1~2ヵ月くらいかかります。そのため、効果が現れるには少し時間がかかりますが、脳が元の状態に戻れば、速やかに症状は解消されます。
ブラッドパッチは技術的にもごく簡単で、治療自体は短時間で終わります。ただし、治療後は安静にすることが重要なので、検査を含めると3日~1週間ほどの入院が必要になります。
私はこれまで、ブラッドパッチによる脳脊髄液減少症の治療を2000例は手がけていますが、半分くらいの人が1回の治療でよくなります。1回で効果が見られなかった場合、2回目の治療を行うか、フィブリン糊(人の血液から生成したフィブリノーゲンを主成分にした糊)を神経根に注入する、手術で穴を閉鎖する、といった治療もあります。
これらの治療で、患者さん全体の7割は症状が改善します。一方、残念ながら効果のない患者さんがいるのも事実です。症状が慢性化してから、長い時間が経過してしまった患者さんは比較的、治りにくい傾向があるようです。
治療そのものは簡単ですから、早期に正しく診断できるかどうかがカギです。しかしながら、なかなかこの病気の認知は進んでいないのが現状です。
そもそも、この病名を知らない医師も少なくありません。軽度の交通事故で脳脊髄液が漏れることは絶対にないと、批判する医師もいます。しかし、そうした中、この病気に関心を寄せる医師が集まって研究会が組織され、研究や治療が進められてきました。
また、2007年に厚生労働省研究班が組織されて「脳脊髄液減少症の診断・治療の確立に関する調査研究」が行われた結果、2012年に診断基準が公表されると同時に、ブラッドパッチ療法が「先進医療」として認められました。
おかげで、健康保険の適用外で全額が自己負担だったのが、検査や入院にかかる費用が保険適用となります。1回につき30万円ほどかかった治療費が、10万円程度まで抑えられるようになりました。
ただ、現状の診断基準はかなり厳しく、実際には脳脊髄液減少症の疑いが高い患者さんでも、画像診断の所見が基準に一致しなければ、先進医療の対象から外れてしまう可能性もあります。
今後、より実態に即した診断基準が作られるとともに、この病気の存在が広く認知されて、一人でも多くの患者さんが救われることを願ってやみません。