解説者のプロフィール

有馬賴底
1933年、東京生まれ。有馬正賴男爵の次男で、学習院幼稚園では天皇陛下のご学友に選ばれた。8歳のとき、戦局拡大の中、軍人として中国に往く父と居残る母は離婚、ひとり禅寺に出されることに。同年、大分県日田市臨済宗岳林寺で得度。55年、京都臨済宗相国寺僧堂に入門、大津櫪堂老師に師事。84年、相国寺承天閣美術館設立。88年、京都仏教会理事長に就任(現在も)。95年より現職。当代随一の茶人でもあり、能筆としても有名。著書多数。『「雑巾がけ」から始まる禅が教えるほんものの生活力』(集英社)では、ふき掃除の重要性を説いている。
禅の教えは「一掃除、二信心」が基本

どうやったら、物事に動じない強い自分になれますか――。
そういう質問に対して、私はいつもこのようにお答えします。
「とにかく、ぞうきんを持ってごらんなさい」ぞうきんを持つというのは、掃除をして、身の回りを清浄な状態に整えること。
それによっておのずと道が見えてきますから、悩みの解決にもつながるのです。
これは、禅僧として76年を過ごしてきた私が、確信をもって言えることです。
そもそも、「掃除」という言葉の由来をご存じでしょうか。
実は、仏教から生まれたものなのです。
禅の教えというのは、「一掃除、二信心」が基本。
お勤めをしたり、書物を読んだりすることよりも、まず掃除をすることがたいせつだと説かれているんですね。
中国・元時代の禅僧に、非常に高徳なことで知られる中峰明本和尚というかたがいらっしゃいました。
その座右の銘には、次のようなくだりがあります。
「常に苕箒を携えて堂舎の塵を払え」苕箒というのはほうきのことで、堂舎は自分自身の精神を指します。
そして、塵は煩悩の例えです。
どういう意味かと申しますと、掃除という行為を通して、「煩悩を捨て、常に己の精神を清めておくことが大事だ」と言っているわけです。
掃除は、単に住まいをきれいにするだけでなく、精神を整えるという意味もあるのです。
いわば、心の鏡を磨くようなものと言えましょう。
このように、禅において掃除は、どんな修行にも勝る修行として取り入れられているのです。
「見えない場所」こそ手を抜かずにきれいに
私は8歳のとき、大分県日田市禅寺「岳林寺」に入ったのですが、小僧時代の15年間は、ひたすら掃除に明け暮れる毎日でした。
それこそ1年365日、掃除に始まって掃除で終わる生活です。
掃除のなかでも、基本の「き」となるのが、ぞうきんがけです。
禅寺では、ぞうきんなくして掃除はできません。
廊下や板の間にはじまり、トイレにいたるまで、ぞうきんはどこでも必要となります。
仏殿のご本尊を安置する「須弥壇」という壇上も、きれいに洗ったぞうきんでふき清めます。
たかが掃除とあなどるなかれ。
それはもう、師匠には厳しく教えられたものです。
特に口ずっぱく言われたのは、「見えない場所をきれいにしろ」です。
例えば、落とし掛け(床の間の天井に渡してある柱)の裏側とか、それこそ便器のふち裏なんかですね。
表側は誰でもきれいにしますが、見えない場所というのは、つい手を抜いてしまうもの。
そんなとき、師匠はいつもこうおっしゃいました。
「見えないところや人が嫌がる場所こそ、気を抜いてはいかん。すみずみまで手をかけることが、“ゆきとどく”ということだ」それで師匠に言われたとおり、裏の裏まで磨き上げてみると、不思議と清々しい気持ちになるんですね。
見えないところにこそ、心が映る。
そういう場所をぞうきんできれいにするのは、自分自身の精神を清めることにもつながるのだと体感しました。
お寺に入る前の私は、3人の女性がお世話係としてつくような、いわば“お坊ちゃん”でした。
掃除などしたことがなかったんですね。
けれども、小僧時代の掃除のおかげで生きる力の基盤が作られ、もともと病気がちだった体も、ずいぶん強くなりました。
ギュッと手で絞ると心身がシャンとする
掃除道具のなかでも、ぞうきんほど人の成長に関わるものはないと、私は考えています。
そもそも、ぞうきんというのは、ギュッと手で絞らなければなりませんね。
だら~っとしていたのでは、しっかり絞ることができませんから、自然と心身がシャンとします。
加えて、絞るという行為は手先を使いますから、それが人間の能力開発にもつながると思うわけです。
日本人というのは、実に指先が器用で、細かい作業を得意とします。
実際に、精密機械や伝統工芸などの職人を見ても、そのレベルの高さは世界でも群を抜いていますよね。
こうした手先の器用さは、箸を使う文化によって培われると言われたりしますが、ぞうきんで掃除をすることも、大いに寄与しているのではないでしょうか。
私の知人である作家の五木寛之君は、よくこのようにこぼすんですね。
「スプーンやフォークを使う洋食が増えて、日本人があまり箸を使わなくなった。嘆かわしいことです……」同じことが、ぞうきんにも言えそうです。
そういう意味では、日本人の特性である手先の器用さが失われはしないかと、たいへん危惧しているところなのです。
近頃では、ぞうきんも市販品が簡単に手に入りますが、昔はどのご家庭でも、使い古したタオルや布で手作りしていました。
禅寺では、その習わしが今も残っています。
たとえ布切れ一枚でも、最後まで無駄なく使う「リサイクル精神」をたいせつにしているんですね。
実は、私たち禅僧が身につける袈裟も、そのような繰りまわしの知恵から生まれたものです。
袈裟は、別名「糞掃衣」と言います。
そのいわれは文字どおり、お尻をふくのに使うほど着古した着物のなかから、まだ状態のいい部分を継ぎはぎして仕立てたことにあります。
再利用できるものは、徹底的に使いまわす。
傷んだタオルや衣服をぞうきんにするのはあたりまえなんです。
そして、ぞうきんがボロボロになっても、簡単には捨てません。
玄関の三和土や庭の敷石の泥汚れをふいたりして、「もうこれ以上は使えない」というところまで使い切ります。
昔であれば、最後にお風呂や竈に火をくべるときの火種に使って、それでようやくおしまいでした。
手づくりのぞうきんを使っていると、そんなふうに「ものの命」もたいせつにする心が育まれます。
ぞうきんがけの作法

ぞうきんがけの真髄は、体を動かして触れるもの

ぞうきんの使い方については、上の図をご参照いただきたいと思いますが、ポイントは、ふく場所によって絞り加減を調整し、「濡れぶき」と「乾ぶき」を使い分けることです。
勘違いされやすいのですが、ぞうきんがけにおける乾ぶきというのは、ほとんど水気がなくなるまで絞ったぞうきんを使います。
完全に乾いたぞうきんでは汚れが取れにくいばかりか、逆に汚れを摺りこんでしまう可能性があるからです。
では、どんなところを乾ぶきするのかというと、お寺なら須弥壇をはじめ、床の間や畳、障子の桟といった「水分厳禁」の場所や、窓です。
窓の場合は、乾ぶきで汚れを取った後、もう一度、今度は完全に乾いたぞうきんでふきます。
こうすると、ふき跡がガラスに残りません。
いっぽう、乾ぶきよりもやや多めの水分を含む濡れぶきは、板の間や廊下などの掃除に向いています。
ぞうきんの使い方になぜ細かい作法が必要なのかですが、日々の暮らしを整える作業だからこそ、合理的な手順に従ったほうが、逆に楽なのです。
ぞうきんがけの真髄は、理屈だけではなかなか理解できないものです。
「冷暖自知(真の悟りは自分で会得するものであるという意味)」という言葉のとおり、まずはご自身の体を動かして、その真髄に触れていただきたいと思います。
