解説者のプロフィール

柴田久美子(しばた・くみこ)
一般社団法人日本看取り士会会長。
介護支援専門員。2002年、看取りの家を設立。
「幸(高)齢者様1人に対して介護者3人の体制で寄り添う介護と、「自然死で抱きしめて看取る」ことの実践を重ねる。2014年、岡山県に拠点を移す。地域の無償ボランティア「エンゼルチーム」を組織し、看取り士とともに、慣れ親しんだ自宅での旅立ちを支える体制を実現。
講演活動を通して「抱きしめて看取ること」「命のバトンを受け取る死の文化」を国内外を問わず世代を超えて伝えている。
●一般社団法人日本看取り士会
http://mitorishi.jp/
「最期の1%の幸せ」をもし叶えられたなら
看取り士とは
私は、23年前から看取りの活動を続けてきました。
「看取り士」とは、余命宣告を受けてから納棺まで、ご本人やご家族の相談を受けて、医療や介護に携わるかたがたと連携しながら、その人の最期を見守る仕事です。
旅立つ人と見送る人が「幸せな最期」を共有できるよう、そばにいてお手伝いをします。
皆さんは死を迎えるとき、どこで、どんなふうに過ごせたら幸せだと思いますか?恐らく多くのかたが「住み慣れた家で愛する人たちに見守られながら、安らかに最期を迎えたい」という願いをお持ちだと思います。
かつての日本では、それがあたりまえの死のかたちでした。
生まれるときも旅立つときも、家族に見守られながら迎える。
それが普通だったのです。
しかし現在の日本では、8割の人が「自分の家で最期を迎えたい」と願っているにもかかわらず、実際には8割の人が、病院で亡くなっています。
病院のベッドの上で、延命のためのチューブを体につながれたまま死を迎えることが、あたりまえになっているのです。
自宅で亡くなるかたの割合は、地域によっては1割に満たないところもあります。
しかも、これは自死や孤独死も含めた割合です。
尊敬するマザー・テレサが残した言葉を紹介しましょう。
「たとえ人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せであれば、その人の人生は幸せなものに変わる」
今の日本では、大多数の人が「最期の1%の幸せ」を叶えられずに亡くなっているのです。
これではあまりにさびしすぎると、私は感じています。
エネルギーを渡す尊い瞬間それが“死”なのです
皆さんは、死や看取りについて、どのようなイメージをお持ちですか?
「死はつらく苦しいこと」「死は不幸で忌まわしいこと」など、負のイメージを抱いているかたが多いのではないでしょうか。
しかし、そうではありません。
看取り士として、今までおよそ200人以上を看取ってきた私が断言できるのは、死は「命のバトン」をつなぐ場面であり、決して怖いものではない、ということです。
私たちは両親から3つのものをいただいて生まれてきます。
「体」「よい心」「魂」の3つです。
私たちは生きている間、さまざまなことを経験しながら、魂にエネルギーを蓄えています。
体はいずれ死という変化で消えてしまいますが、魂に積み重ねたエネルギーと、よい心は、子どもや孫、そして愛する人たちへと、リレーのバトンのように受け渡すことができるのです。
生きて生きて生き抜いて、それまで魂に蓄えた愛や喜び、生きる力などのエネルギーを、たいせつな人や次の世代に渡すことこそ、私たちが生まれてきた意味であり、人生で唯一と言っていいほど、たいせつな使命ではないでしょうか。
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは「人間は旅立つとき、25mプール529杯分の水を瞬時に沸騰させるくらいのエネルギーを、縁ある人に渡していく」とおっしゃっています。
看取りとは、旅立つ人と見送る人の間で、エネルギーの受け渡しをする場面なのです。
旅立つ人にとっては、愛する家族や友人に命のバトンをつなぐことができ、見送る人にとっては、魂のエネルギーを受け取ることができるという意味で、双方にとって喜びと幸せに満ちた尊い場面といえます。
たった1つのたいせつなこと「旅立つ人の体に触れる」
これから旅立っていく人が、そんな幸せな最期を迎えるために、見送る人は何をすればよいのでしょうか。
答えは簡単。
旅立つ人のそばにいて、体に触れていることです。
抱きかかえてあげてもいいですし、手を握るだけでも構いません。
体に触れることでエネルギーをより確かに感じることができます。
そして旅立つ人に、言葉を超えた気持ちを伝えることができるのです。
旅立つ姿を見守っていると、ご本人が苦しそうに見えるときが訪れますが、怖がったり心配したりする必要はありません。
お迎えがきた人は、あの世とこの世を行ったり来たりされていて、とても心地よい状態なのです。
問いかけに応じなくても、旅立つ人には私たちの話していることはすべて聞こえていますし、思っていることも伝わっています。
やがて呼吸が荒くなってきたら、見送る人は旅立つ人の体に触れながら、呼吸を合わせます。
そのうちに、リズムが共有されていきます。
旅立つ人と見送る人の息が1つになったら、見送る人は呼吸をゆったりとした深い呼吸へと戻していきます。
すると、旅立つ人の呼吸もゆっくりと落ち着いたものになり、やがて静かに息を引き取られるのです。
この「呼吸合わせ」は、旅立つ人を安らぎの世界へ導くとともに、見送る人の不安を鎮めてくれます。
息を引き取られた後も、体が温かいうちは、魂はそこにあります。
旅立つ人の体が冷たくなるまで、時間の許す限り、その体に触れていてください。
見送る人にとっては、死を受け止めて、たいせつな人を亡くした悲しみを癒す意味もあります。
「死なないで!」と旅立つ人に言わないで

上記写真は、このようなかたちでお母さまを自宅で看取られたご家族の写真です。
部屋に入った瞬間、私は「お母さまの周りに愛があふれていますね」と声をかけました。
キラキラと輝いた温かいエネルギーに満ちあふれていたからです。
お母さまに付き添われていた息子さんは「え……?わかりません」と言われました。
それで私は「体に触れてあげてください」と言いました。
照れながらもお母さんの体に振れた息子さんは「すごく温かい」と言われたのです。
こうしてご家族に見守られながら、お母さまは安らかに旅立たれました。
テレビドラマではしばしば、医師が「ご臨終です」と告げて、家族が泣き崩れるシーンを目にします。
皆さんの中にも、ご臨終に間に合わず「親の死に目に会えなかった」と悔いている人がいるかもしれません。
しかし、臨終の瞬間に命が終わるわけではありません。
臨終は「臨命終時」の略で、「命の終わりのときに臨む」という意味。
これからその人の命が終わり、命のバトンの受け渡しが始まる。
これが臨終の、ほんとうの意味なのです。
だからこそ、旅立つ人の温もりをしっかりと自分の手に移し、体が冷たくなるまで、エネルギーを受け取ることが大事だと思います。
ある看取りでは、お母さまが息を引き取られた5時間後に、娘さんが到着されました。
私は「間に合ってよかったですね」と声をかけました。
お母さまのおなかが、まだ温かかったからです。
亡くなる人のかたわらで家族が、「死なないで!」「お母さん、私が分かる?」などと声をかけるシーンもよく見かけます。
実は、この2つは、看取りのときに言ってほしくない言葉です。
「死なないで!」というのは「死んでほしくない」という自分のエゴからの言葉です。
旅立つ人は、すべて手放してあの世へ行かれるのです。
また、愛するあなたのことは当然分かっていますから「私が分かる?」と聞く必要もありません。
かける言葉は「ありがとう」と「もういいよ。安心して旅立ってね」だけでじゅうぶんです。
読者のかたの中には、たいせつな人に先立たれ、そのとき満足のいく看取りができずに自分を責めているかたもいるかもしれません。
あるいは、亡くなった人の魂を感じてみたいというかたもいるでしょう。
そんな人に私は「初七日(下図参照)をもう1回やってみてください」とお伝えしています。
難しいことではありません。
亡くなった人が「今ここにいる」と思って、生きていたころと同じ行為をするのです。
家に着いたら「ただいま」と声をかける。
「お茶を飲もう」と言って2人分のお茶をいれて飲む。
写真に語りかける。
そうしているうちに、故人と自分の魂が重なっていきます。
「初七日」の意味

34人目の看取りで学んだ私たちが生きる真の目的
私は、看取りを通じて学んだことを、講演で子どもたちにも伝えています。
先日も「あなたたちは生きていればいいの。勉強ができるとかできないとかは、ただのおまけ。勉強をしたくなければ、しなくていいの。朝、元気よく『おはよう』と言えたら、それで満点」とお話ししました。
今、生きづらさを感じている人たちにも同じことをお伝えしたいと思います。
「生きていること」それ自体が価値のあることなのです。
最期のときまで生き抜くこと以外は、人生における単なるおまけ。
自分らしく生きていれば、それでいいのです。
それを私は、34人目に看取った74歳のおじいさんに教えていただきました。
そのかたは認知症で、とてもわがままなおじいさんでした。
「ベッドは嫌だから布団で寝る」「奥さん以外の女性に体を触られたくないから入浴介助は男性しか嫌」などと、嫌なことは絶対に嫌という態度を貫いていました。
看取りのとき、そのおじいさんを抱きながら私は驚きました。
体が温かいどころではなく、熱いのです。
それはもう大きなエネルギーで、「きっとキリストの魂はこんなふうだったろう」と感動しました。
このかたから学んだのは「人は社会のルールに反してさえいなければ、自分らしくわがままに生きていいんだ」ということです。
自分が嫌なことをしない。
決して無理しない。
そして喜びを感じられる生き方をする。
それこそが魂を磨く道なのです。
嫌なことを受け入れ続けていると、魂まで傷つけてしまいます。
だから皆さんも、自分をたいせつにして、ありのままの自分を認めて、喜びを感じられることを選ぶ生き方をしていただきたいと思います。
私自身、死ぬことはまったく怖くありません。
保育園児の孫にも「ちいばあ(私)が死ぬときにバトンをあげるから、ちゃんと受け取りなさいよ」と話しています。
孫は「うん。ボクがもらうよ!」と笑顔で答えてくれます。
死を迎えるとき、体は朽ちてしまうけれども、いちばんたいせつな魂のエネルギーは、愛する人たちに手渡すことができる。
そう考えると、生きることにも死に対しても、希望が湧いてくると思うのです。
日本は「多死社会」を迎え死を考える必要性が高まっている(長尾クリニック院長 長尾和宏)
日本では今、年間130万人が亡くなっており、2030年には年間170万人にもなると言われています。
まさに多死社会を迎えており、死について考える必要性が高まっているのです。
しかし、いまだに死を語ることは、日本ではタブーとされています。
じつは医学教育の中でも、死に関する教育というのはありません。
これからの時代は、死と正面から向き合うことがたいせつです。
柴田さんの活動は、多くのかたに死と向き合う機会を作り出しており、意義のあることだと感じます。